さて、イエスがベタニヤでらい病人シモンの家におられた時、
ひとりの女が、
高価な香油が入れてある石膏の壺を持ってきて、
イエスに近寄り、
食事の席に着いておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、
『何のためにこんな無駄使いをするのか。
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに
イエスはそれを聞いて彼らに言われた
『なぜ、女を困らせるのか。
私によい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつもあなた方と一緒にいるが、
私はいつも一緒にいるわけではない。
この女が私のからだに香油を注いだのは、
私の葬りの用意をするためである。
よく聞きなさい。
全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も記念として語られるであろう』
マタイ26章6~13節
霊と対峙する物
さて、
最初の弟子たちが主イエスのもとに集い従っていました。
パリサイ人たちは、ある日、
麦の穂を摘んで食べているのを発見しました。
これを主に告げに行くと、主はこう言われました。
「安息日は人のために定められたのであり、
人が安息日のためにあるのではない。
だから人の子は安息日の主でもある」
これは(イエスのとがの)別の機会を待っていた、
パリサイ人たちを大いに不快にした。
パリサイ人たちは安息日に彼を癒すかどうかを試すために、
病気の男を連れて行きました。
イエスは彼らに目を向けて、
「安息日に正しいのは善行か、それとも悪か?」と尋ねました。
彼らは答えられませんでした。
するとイエスは病人のところに行き、彼を癒したのです。
これが決定的にパリサイ派の人々との対立につながりました。
その夜パリサイ派の一人であるニコデモに会いました。
ニコデモは、
イエスが神のもとから来た教師であることを認めていましたが、
「あなたの全ての教えを認めて理解することができません」
と語りました。
すると主は、
深く霊的な、示唆的な言い回しでこう答えました。
「人は再び生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
肉によるものではなく霊的に生まれ変わらなければなりません。
主イエスは
心の真の変化が再生を成し遂げることを示したのです。
イエスはサマリヤの町を通りました。
サマリヤのシカルで、彼は井戸の近くで休息を取り、
弟子たちは食べ物を買うために町に入っていきました。
そこへサマリア人の女が水を取るために井戸に来たのです。
主は彼女に、
水を飲みたいので水を分けて欲しいとお願いしました。
当時は、
女は躊躇しました。
すると主は彼女の過去の人生について語りました。
主もご自身がメシアであることを認めました。
驚いた女は町の人々全員にこの事柄を広めたため、
人々は彼のもとに集まり、
「この方こそ世を救うまことのキリストである」
と宣言したのです。
主イエスがカナに帰ると、ある高貴な人が近づいてきて、
カペナウムで彼の子供が瀕死な状態であると述べ、
癒しの恵みを主に祈り求めました。
主は答えました。
「帰りなさい。あなたの息子は助かる」
主がこの言葉を発した瞬間、息子は健康を取り戻した。
高貴な人がカペナウムに帰るやいなや、
彼のしもべたちは幸せな知らせで迎えたのです。