イエス様の生涯
霊的探求者 への教え
スワミ・チダナンダ
サット・チット・アーナンダであるアートマンに祝福あれ。
(サット・チット・アーナンダとはアートマンの特性
実在・純粋意識・至福を意味します。 訳注)
Asato ma sat gamaya,
tamaso ma jyotirgamaya,
mrityorma amritam gamaya
「アサトマー・サット・ガマヤ
タマソーマー・ジョーティール・ガマヤ
ムルットョーマー・アムリタム・ガマヤ」
Sarve bhavantu sukhinah,
sarve santu niramayah,
sarve bhadrani pasyantu,
ma kaschit duhkhabhagbhavet
「サルヴェー・バヴァントゥ・スキナハー
サルヴェ・サントゥ・ニラーマヤー
サルヴェ・バドラニ・パシャントゥ
マ・カスティド・ドゥカ・ヴァバヴェット」
最も神聖な日であるキリスト降誕祭の今日、
聖なる師であるサットグルデヴの命のもと、
心からの崇敬を持ってサンスクリット語の祈りを詠唱し、
皆様への奉献として捧げさせていただきました。
これらの祈りには特別な目的がございます。
初めの詠唱は、
「アサトマー・サット・ガマヤ
タマソーマー・ジョーティール・ガマヤ
ムルットョーマー・アムリタム・ガマヤ」
「私たちを非実在から実在に導いてください。
暗闇から永遠の光へと、
死から不死へと導いてください」
と言う意味です。
それから宇宙全体の幸福のために祈りを続けました。
「サルヴェー・バヴァントゥ・スキナハー
サルヴェ・サントゥ・ニラーマヤー」
「すべての人が、幸せでありますように
すべての人が、病から解放されますように」
「サルヴェ・バドラニ・パシャントゥ
マ・カスティド・ドゥカ・ヴァバヴェット」
「すべての人に吉祥がありますように
誰も苦しみ悲しむことがありませんように」
これらの祈りは普遍的な幸福、善意、兄弟愛を、
人類に確実にもたらし、平和を遍く地上に実現させます。
この祈りによって、地上で幸福を実現させ、
人々をこの世俗的な生活から神聖な生活、
すなわち霊的経験からくる、より高い人生へと導き、
人々の霊的自己実現をもたらすのです。
そのために偉大なる霊魂、神、崇高なる輝かしい霊の権化が、
人の姿をとり、この地上に転生するのです。
いかにして、総体的な善のため、世界全体の福利のため、
お互いが貢献できるのかを教えるために彼らは来るのです。
善意と吉祥(繁栄)、愛と奉仕に生きることで、
どのようにして、この人生を変容させ、不滅に至れるのか、
そのことを教えるために彼らは来るのです。
非真実と無知迷妄なこの人生から立ち上がり、
永遠の光と不死に戻る方法を教えるため、
そのために彼らは来るのです。
幸福の実現のため、これらの偉大な魂は地上に転生し、
彼らの生涯と活動、模範と教えを通して人類に教えます。
イエス様の人生は、そのような、
ローカ・サングラハ(世界を理解した人 訳注)の、
崇高な一例と言えるものです。
ローカ・サングラハを通して、
全人類は永遠なる存在への道を知ることになるでしょう。
主イエス様は聖なる完徳に至る方法を教えるために、
遥か遥か昔にこの地上に転生されましたが、
それは主が生きられた偉大なる生涯を通して、
人類が表面だけではなく、
心の底から変容されるためでありました。
主はこの仕事を成し遂げましたので、
世界中の人は主の神聖さを認め、
今日に至るまで崇拝しているのです。
それゆえ、聖地から何千マイルも離れている私たちも、
今ここで聖誕祭をお祝いしているのです。
キリストが来られたのは、
人類を無知の暗闇から知恵へ、
死すべき運命から不滅へ、
非現実なものへ執着する人生から、
アートマン的意識の内に確立した人生へと、
導くために来られた故に、聖なる降誕とされたのです。
主が生まれたのは、みすぼらしい小屋でした。
牛がつながれて飼料が置かれている、
飼い葉桶のなかで誕生したのです。
主は大工の息子でした。
このことから、神聖な霊は、
謙虚、純粋、柔和で、驕り高ぶることのない、
霊のうちに生まれるという真理がわかるでしょう。
宿泊所のこの貧しい小屋の飼い葉桶に生まれたことは、
まさにこの真理を象徴しています。
私たちは主の崇高なる人生について、
数え切れないほどの説教をすることができますが、
完全に主の栄光と威光を理解することは出来ないでしょう。
それでも、イエス様の生涯から幾つかの出来事と、
主の唇からでた尊い言葉を思い起こしてみましょう。
イエス様によって教えられた譬え話の一つに、
「種まき人」の譬えがあります。
岩の上に蒔かれた種は出芽しませんでした。
イバラの上に落ちた種は窒息して成長しませんでした。
肥沃な土に蒔かれた種は芽を出し、よく育ちました。
よく実りがあるように、しっかり耕されていたのです。
それでも、私たちが実りに相応しいようにと、
土地であるハート(心)を耕し、
純粋な者となり、信仰と熱愛を培い、
必要である資質を得ないならば、
神聖な聖書、経典、全ての聖者は、
私たちのために殆ど何も出来ないでしょう。
少なくとも自分自身を適切な器にする作業は、
サダカ(霊性修行者)にとって義務と言えます。
したがって、霊的自己実現を熱望する修行者は、
「種まき人」の譬え話を思い起こし、
霊性の種を受けるに相応しい者になるよう努力しなさい。
そのように努力するならば、人生は実りあるものになります。
つづく