第5章を全て載せておきます。
第6章で本書は終わり出版します。
第5章 主イエスの恵み
⒈家を建てる人
ある賢明な男が堅い地盤の上に自分の家を建てた。
彼は土を深く掘ると、基礎となる岩を並べた。
家は天候の変化に見舞われ、多くの嵐に襲われ、雨が降り、
波が岩に叩きつけもしましたが、家は安全だったのです・・・・
それは岩の上に建てられたからなのでした。
愚かな男が砂の上に家を建てました。
雨が降りました。風が吹き、洪水が起こりました。
家の壁が崩れ落ち、多くを失いました。
なるべくしてそうなったのです。
賢明な人とは、
霊的な真理を学び、その教えを生きる人のことです。
彼の知恵と人生は、実践という堅実な岩石に基づいています。
彼の知恵と人生は、何が起ころうとも揺るぎません。
幸福な時も災いの時も、雨の時も晴天の時も、
誉れある時も惨めな時も、彼の知恵は変わることなく、
彼の人生は落ち着いているのです。
愚かな人とは、
霊的な真実を聞いたり、勉強したりするが、
その教えを生きることのない人のことです。
彼の知恵と人生は、
空論的理解の崩れゆく砂の上にあります。
人生における不運、病気、挫折や侮辱によって、
彼の知恵は崩れ落ち、人生は滅茶苦茶になるでしょう。
そうなると立ち直ることもできません。
ですから、賢明な人に倣い、
学んだことを身につけて、日常の生活で教えを活かすのです。
2.良きサマリア人
そこへ強盗団が待ち伏せしていたのです。
彼らは旅人を丸裸にすると暴力を振るいました。
旅人から持ち物を全て奪い取るためです。
そのため旅人は息も絶え絶えになりました。
そこに僧侶が通りがかりました。
呻いている男を見ましたが、
おそらく僧侶は自分のことで頭が一杯だったのでしょう、
そのまま過ぎ去ってしまったのです。
次にレビ人が来ました。
(イスラエルの部族の一つ 信仰が薄い者の象徴 訳注)
彼もまた、不幸な旅行者の泣き声を無視して、
旅人を置き去りにして行ってしまいました。
そこにサマリア人が来ました。
(イスラエル人と移民との混血の部族の一つ
信仰が篤い者の象徴 訳注)
イスラエルの正統派の人々にとっては、
サマリア人と関わることは罪とみなされていました。
旅人の前にひざまずき、応急処置をし、
傷の手当てをすると、自分の馬に乗せて旅館に連れて行き、
傷が癒えるまで滞在できるように、支払いまでしたのです。
この三人の中で誰が良き人ですか?
もちろんサマリア人です。
彼こそ良きサマリア人です。
憐れみを必要とする人に、憐れみを施す者こそ隣人です。
助けを必要とする人に、何もかも差し出せる人こそ、
「あなたの隣人を、自分のように愛しなさい」
という黄金の言葉を、身を以て証する人なのです。
3.汚れた霊
邪悪な霊が住処から立ち去りました。
そして、その霊は水の乏しい所を彷徨いました。
しかしどこにも休む場所を見つけられませんでした。
そこで、元の家に戻ったのです。
離れている間に、家はきれいに掃除されていたのです!
さあ、悪霊は何をするでしょうか?
その霊は外に出ると、7つの同類の悪霊を連れて帰り、
また家に住み着きました。
そうなったら家はどうなるか、想像してみてください!
以前よりもさらに悪くなりませんか?
そう、さらに酷い状態になったのです。
ときおり、人の中にある邪悪な性質は、
一時的に姿を消したかのように見えます。
賢者との関係を持ち、聖者の戒律を守ることにより、
邪悪な性質を兵糧攻めにして、現れないようにできます。
神聖なこれらの力により、家(人の心、ハート)を掃除し、
すべての汚れと不純から清めることができます。
しかしながら、長く続くことはありません!
邪悪な性質は戻ってくるものです。
そうするとどうなるでしょうか?
しばしば、以前の七倍は悪くなるのです。
ああ、ですから気をつけていなさい!
永遠に寝ずの番をするのです。
古い邪悪な性質が戻ってくる兆候に、目を光らせていなさい。
それがまだ蕾のうちに摘み取るのです。
そうすれば安全でいられるでしょう。
4.愚かな金持ち
あるところに金持ちの男がいて、
その年、彼の畑は豊作であった。
彼の納屋はとても小さかったため、
すべての穀物をしまうことができませんでした。
金持ちは自分のために、
すべての穀物をしまい込みたかったのです。
あり余る物質的富があるので、
食べて飲んで陽気な気分で過ごせると考えたのです。
しかし、神は彼に言ったのです。
「ああ、愚か者よ!
あなたの魂は今夜取り出されるのだ。
そうしたら、この蓄えた富は誰のものになるのか?」
彼は富を楽しむこともなく、
貧しい人々に施して満たしてあげることもなく、
この世をさってしまいました。
これはすべての貪欲な人々の運命なのです。
ああ、愚かな金持ちよ!
あなたは主によって委ねられた財産の管財人に過ぎません。
あなたの持ち物を、貧しく困窮している人々に分け与えなさい。
そうすれば、あなたの魂が肉体から離れる時、
主はあなたの行いに満足することでしょう。
富というものは、賢明に主の他の子供達と分かちあうために、
主があなたに授けたものだからなのです。
自分のために死蔵されたものは富ではありません。
5.霊的生活の必須条件
もし塔を建設したいと欲するならば、
まず最初にすべきことは、座り、経費を計算して、
塔を完成するのに十分であるかを調べるべきです。
そうでなければ、つまり、
計画を作成せず、原材料を入手することもなく、
愚かにも作業に取り掛かるなら、
塔を建設できずに、誰もが彼をあざ笑うでしょう。
同様に、他の国の王と戦争を起こすためには、
王はまず大臣、閣僚たちと相談し、敵軍の強さと比較して、
自分の軍の力を計算することでしょう。
王が自国の軍を適切に装備できない場合は、
たとえ本意でなくても、
敵の条件を飲んで平和交渉をする必要があります!
探求者が人生を神聖化することを望むなら、
彼は霊的生活の必須条件をよく考え、
思いを巡らさなければなりません。
冷静、識別、まことの放棄の精神を身につける必要があります。
また、彼は自分の目標を諦めざるを得なくなるでしょう。
探求者は人々から嘲笑われるでしょう。
あるいは、邪悪な力に降伏して、
大いなる霊的な艱難を忍ばなければなりません。
ああ、霊的な志願者よ!注意しなさい。
最初に四つの救いの手段を得るのです。
そうすれば、悲しみの原因はなくなります。
(四つの救いの手段:四つの資質である、
ヴィヴェーカ(識別)、ヴァイラーギャ(冷静)、
シャマーディシャッカサンパッティ(規律)、
ムムクシュットヴァン(願望)、
を指すものと思われる。ただしサンスクリット語には、
より深い意味があるので、正しい先生についてより深く、
沈思する必要があります。
例えば、ヴァイラーギャ(冷静)とはdispassionという、
英語の方がより真意に近いニュアンスがあります。
非愛着、離欲、無執着と訳す方もいます。 訳注)
6.パリサイ人と取税人
二人が祈りのために寺院に詣でた。
一人はパリサイ人で、もう一人は取税人でした。
パリサイ人は取税人に気づいて離れて祈りました。
そして彼は心の中でこう祈りました。
「神よ、あなたに感謝します。
私は他の人々、搾取者や、不当な姦通者、
この取税人のような者ではないからです。
私は週に二回の断食をして、
収入の十分の一の税金を捧げているからです」
一方、取税人は頭を上げることさえせず、
胸を叩いてこう祈りました。
「神様、罪人のわたしをおゆるしください」
神に喜ばれたのは、この取税人でした。
彼は心から謙虚であったからです。
パリサイ人は自分の敬虔さに誇りを持っていました。
そして、その誇りは他のすべての美徳を覆い隠していました。
宗教的誇りは危険です。
物質的な、富への誇りなどよりも、さらにたちが悪いものです。
宗教的誇りは霊的進歩を大いに妨げるものです。
ですから謙虚になりなさい。
7.五人の愚かな乙女
乙女たちが花婿に会うために出かけることになっていました。
彼女たちは皆、手にランプを用意していました。
そのうち五人は予備の油を持っていましたが、
他の五人は持っていませんでした。
乙女らは花婿を待っているうちに眠ってしまいました。
数時間経った後、花婿が到着したと告げられ、
それで乙女たちは目を覚ましたのですが、
乙女たちは騒ぎはじめました。
予備の油を持っていた五人は出かける準備万端でしたが、
油を用意していなかった他の五人はそうではなかったのです。
愚かな乙女たちは先の五人の乙女に頼みました。
「私たちに油を少し分け与えてください」
「私たちのランプの火が消えそうになっていますから」
しかし、五人の賢い乙女はこう言って断りました。
「花婿を迎えに行くのに、ランプの火を灯し続けるためには、
私たちの油も十分とはいえません。
店に行って、あなたがたの分をお買いになる方が良いでしょう」
そして五人の賢い乙女たちは、花婿に会いに行きました。
五人の愚かな乙女たちは、油を継ぎ足すためお店に行きました。
しかし、彼女らが帰って見ると、すでにドアは閉じられ、
中に入ることも花婿に会うことができなかったのです。
寝ずの番をしている霊的志願者と、
感覚に耽溺している愚かな人にも、同じことが言えます。
前者は四つの手段(四つの資質)を身に付け、
まことの富である神の名と、霊的習慣を身につけています。
ですから、神の使者が彼をこの地上から引き上げるときに、
主に会うために必要なものを身につけ準備万端にしています。
しかし、愚かな感覚に生きる人は、地上で彼の人生を浪費し、
霊的な富を得ることを気にも掛けていませんでした。
愚かな人の生命のランプは、
主に向かい進歩を遂げる前に消えてしまいます。
それで、この生と死から織りなすこの世界、
店に戻ることになるのです。
ああ人類よ!ですから、いつも準備をしていてください。
今この瞬間を、この地球上で最後の瞬間であるかのように生き、
今ここで最高の霊的な富を得るのです。
8.二人の息子
父親が一番目の息子のところに行き、こう言いました。
「息子よ、今日はぶどう園に行き働きなさい」
しかし、息子はこう答えました。
「いいえ行きません」
しかし、後になって、その息子は後悔して仕事に行きました。
それから彼は二番目の息子のところに行き、
同じことを言いました。
その息子はすぐにこう答えました。
「はい、行ってきます」しかし、彼は行きませんでした。
どちらが父親の言う通りにしましたか?
もちろん一番目の息子です。
ですから、父親は一番目の息子のことをとても喜びました。
これは、この世においてもしばしば起こっています。
神は、人類の罪の贖いのために使徒を遣わします。
正義の道を歩み、神に立ち返るように、
人々に呼びかけるためにこの世にきます。
罪びとたちの多くは、
最初は拒否しますが、すぐに自分自身の愚かさを認識し、
すみやかに神の道に立ち返ります。
しかし、偽善者たちは容易く同意し約束しますが、
口だけの約束で、正義と神聖な人生を歩むことはありません。
バカヴァッドギータの言葉にもあるように、
罪びとであっても、神の人生の道に立ち返ることを決意し
主の約束に従って、すみやかに純粋なる魂になり、
平安に達することを、神はなおのこと喜ぶのです。
「クシプラム バーヴァティ ダールマトマ」
(Kshipram Bhavati Dharmatma)
正義を偽り、神の意志を行わない偽善者たちは、
外に取り残されるのです。
あなたの行動もって証しなさい。
(マタイによる福音書21:28~32 参照 訳注)
9.しつこい友人
ある人が子供たちと一緒にぐっすり眠っていました。
そこへ、彼の友人が訪ねてきたのです。
お客に食べさせるために三本のパンが急に必要になったのです。
しかしすでに、真夜中を過ぎていました。
友人は眠っている男のドアをノックしました。
最初は何の答えもありませんでした。
そこで友人は再びノックしました。そして彼は言いました。
「ああ、友よ、お願いします。私にパン3本を与えてください。
お客にまかなう物が何もありませんから」と。
しかし、家の中の男は答えました。
「どうか眠りを邪魔しないでください。
子供たちは私と一緒に寝ていますし、もう真夜中ですから」と。
しかし、友人は繰り返しノックし続けました。
そのため、男は起きて友人への施しを余儀無くされたのです。
そのように、祈りの中で、霊的修行、正義と慈愛を、
屈せずにやり通すことが必要です。
すべての人に無尽蔵に格納された力があります。
しかしながら、この力はまるで眠っている状態です。
霊的な志願者は、
この力の扉をノックしなければなりません。
志願者は、不滅、永遠の至福、永久の平和と言う、
三本のパンを祈り求めます。
最初は、彼の祈りは聾唖者に話しかけるかのようで、
失敗したかのように思えます。
もし彼がそれで絶望して祈りを辞めてしまえば、
彼に得られるものは何もありません。
しかし、賢明な志願者は何度もノックします。
そうすると応答がありますが、それはいわば否定的なものです。
彼自身の邪悪な傾向、過去の数々の邪悪な行為、内なる不完全性が、
偉大な贈り物の三本のパンを拒否します。
それでも落胆しない人は、扉を叩き続けて、
やがて褒美を獲得するのです。
力は完全に目を覚まし、志願者は求めていたものを手に入れます。
求めよ、されば与えられん。
探せ、されば見出さん。
叩け、されば開かれん。
(マタイによる福音書 7章12節 参照 訳注)
10.種まき人
(聖書の言葉から)
再び主は海の岸辺で教え始めた。
そして非常に多くの群衆が主を慕って集まったので、
主は舟に乗り海の上にとどまった。
すべての群衆は岸辺に集っていた。
主は彼らに多くのことを譬えで教えてくださった。
主は彼らに言われました。
「聴きなさい!
ある種まき人が種をまくために出かけた。
彼が種をまくと、ある種は道端に落ち、
鳥たちが来てそれを食べました。
他の種は土ほとんどない岩の上に落ち、
土に嵩がなかったのですぐに芽を出しました。
しかし日が昇るとすぎに焼けてしまい、
根がないので枯れてしまったのです。
他の種はイバラの棘の中に落ちてしまい、
棘が育つと窒息して実を結びませんでした。
しかしながら、他の種は良い土地に落ちて、
穀物を実らし30倍と60倍と100倍の収穫があったのです」
「聞く耳のある人は聴きなさい」主は彼らに言いました。
「あなたはこの譬え話を理解できないのですか?
もし理解できないのなら、
どのようにして、すべての譬え話を理解できるでしょう?」
種まき人が撒いたのは主の言葉です。
道端に撒かれた種、主の言葉が蒔かれると、
彼らは聞くには聞きますが、すぐに、サタンがやって来て、
彼らに蒔かれた言葉を取り去ります。
そして、同じように、岩場の上に蒔かれた人々は、
主の言葉を聞くと直ちにそれを喜んで受け取ります。
しかしそれらの言葉は根を持たないために、
しばらくの間耐えますが、その言葉を持ち続けようとして、
苦難や迫害が起こるとすぐに言葉を忘れてしまいます。
そして、他の種はイバラの棘の中に蒔かれたものです。
彼らは言葉を聞くは聞きますが、
世の事柄の心配、富の喜び、そして欲望によって、
自らを塞いでしまい主の言葉が窒息し実を結びません。
しかし、良い土に蒔かれた種は、
主の言葉を聞いてその言葉を受け入れて、
30倍と60倍と100倍の実を結ぶ者たちを意味するのです。
マルコ福音書4章1-9、13-20
11.迷子になった羊
百匹の羊を所有している男がいました。
彼は放牧のために羊たちを連れて出かけたのです。
放牧から帰ってきたとき、
羊たちのうち1匹が行方不明であることが判明しました。
すぐに99匹を残して、その羊を探しに出かけたのです。
彼は、99匹が安全に家に帰ることがわかっていました。
彼は迷子になった羊を見つけました。
彼は喜んで肩に担いで帰路につきました。
そして家に着くとすぐに、彼は隣人に告げました。
「私と一緒に喜んでください。
迷子になっていた私の羊を見つけましたから」
そのように、罪人が悔い改めて、
神の人生の道に共に帰れることを
神の人は望んでおり、
どんなにそれが骨を折る労苦でも惜しむことはありません。
彼には正しい人たちが、
神という安全な家に帰れることを知っています。
一人の罪人がでさえ命を取り戻すことは、
神々とマハーリシにとって、喜びなのですから。
(マハーリシ:大いなる賢者 キリスト 訳注)
12.タラント(古代ギリシア ローマの通貨)
ある人が旅をすることになりました。
そこで、僕たちを呼び寄せ自分の財産を彼らに委ねました。
ある僕には5タラントを預け、もう一人には2タラント、
そしてもう一人には1タラントを、
それぞれの能力に見合うものとして預けたのです。
(マタイ福音書25章15)
長い時が経って、主人は戻ってくると、
預金を清算することにしました。
5タラントを預かった僕は、
そのお金で商売をして更に5タラントを増やしていました。
彼は10タラントを主人の前に返し、彼がしたことを説明しました。
主人は非常に喜んで、こう言いました。
「よくやった。良き忠実な僕よ。
あなたは少しのことにも忠実であったので、
私はあなたに多くものを任せよう。
主人である私と共に大いに喜びなさい」
同じように、2タラントを預かった僕は、
主人の前に4タラントを差し出し同様に誉れを受けました。
しかし、1タラントを預けられた僕は、
1タラントを差し出しながらこう言いました。
「私はご主人が取引で厳しいこと、
タラントを失うことを望まないことを知っていたので、
安全なところに隠ししまっておきました。
さあ、1タラントをお戻しします」と。
主人は怒りながら言いました
「悪く、怠惰な僕だ!
あなたはお金を銀行に預けて投資しておけばよかったのだ」
そうして主人は他の者にこう命じました。
「それでは、この僕からタラントを取り上げて、
10タラントを稼いだ僕へ与えよ。
そして、この無能な僕を外の暗闇に放り出しなさい」と。
この譬え話の意味は明らかです。
神の恵みによって、人にはある程度の敬虔さ、
慈愛の性質、霊的な傾向などが与えられています。
これらの美徳は、絶え間ない修養によって増強されるべきです。
人生とは、人間としての誕生は、そうする絶好の機会です。
こうして美徳を増強する者は主の愛する者になり、
天の国において彼と共に至福を楽しむことになります。
この人生を浪費して、
彼の天賦の美徳を全く使わない者は、
持っていた美徳も失い、悲しみの憂き目にあうのです。
積極的にかつ力強く、善良で正しい者に成りなさい。
13.放蕩息子
若い息子は父親にこうもちかけました。
「父よ、今ここに私の財産の分け前を下さい」
そして、父親が財産を渡すや否や
その息子は遠く離れた国に行ってしまいました。
そして間も無く、そのお金を湯水のごとく使い果たしたのです。
飢饉が国を襲いました。
若い息子は大変に惨めな状態となりました。
彼は父親のことを思い出すと、自分自身にこう言いました。
「父のところに戻って、こう言おう。
『父よ、私は天とあなたの前で罪を犯しました。
私はもはやあなたの息子と呼ばれるにふさわしくない者です。
あなたに雇われている僕の一人として私を扱って下さい』と。」
家に戻ると、彼の父親はまだ遠くにいるのに息子を見つけた。
そうして息子に向かって急いで駆け出すと、
雇われている僕として扱うよう懇願する息子を抱きしめた。
そればかりか、父親は上等の服を持ってこさせ、
装飾品を身につけさせて、最高の食べ物も食べさせた。
若い息子の帰還は、お祭り騒ぎで祝われたのです。
そこに野良仕事から帰ってきた長男が、
このお祝いの言葉を聞きつけてやってきました。
長男は怒りました。
「これはどういうことか」彼は言いました。
「私は長い間、お父さんに仕えてきました。
そして、言いつけに背いたことは一度だってありません。
それなのに、私が友人と宴をするときに子羊1匹でさえも、
与えてくれなかったではありませんか。
ところが、あの息子が、娼婦どもと一緒に、
あなたの身上を食いつぶして帰って来ると、
肥えた子牛を屠って与えるとは!」
しかし、父親はこう答えました。
「息子よ、あなたはいつも私と共にいて、
私のすべてはあなたのものではないか。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と。
この譬え話にも迷子の羊の譬え話と同じ道徳的意味があります。
この不道徳な男にも、
神の贈り物である人生とエネルギーがありました。
それを彼は悪い行いによって浪費してしまいます。
その結果、彼は惨めな状態に陥りました。
病気と老齢が彼を襲うのです。
そうして彼は神のもとに立ち返ります。
天の国の人と聖人たちは、
そのような者が正義の道に戻るとき、大いに喜びます。
邪悪な人が真理の道に贖われたからなのです。
(ルカによる福音書15章11~)
14.隠された宝
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。
人がそれを見つけると隠しておき、
喜びの余り、行って持ち物をみな売り払い、
そしてその畑を買うのである」
(マタイ福音書13章44)
これは、霊的に重要な意味が込められた、
美しくて小さな譬え話です。
至福と理解を越えた平和に満たされた魂は、
隠されていた宝と言えます。
それは人間のハートの最も内奥に存在します。
それは、導師、大師、グルによって詳らかにされます。
大いなる喜びのうちに、
グルによる霊的なイニシエーション(灌頂)のために、
霊的な志願者は彼の持つ全てを投げ売るのです。
彼はこの世のちっぽけな快楽を放棄します。
そして、志願者はこのイニシエーションを、
常に気づかれないように上手に「隠された」ままにします。
彼はこの隠された宝について、自慢することはありません。
沈黙を守り、それを保つために黙々と働きます。
この世と、そのとるに足らない喜びを放棄した後、
彼は、霊的生活、神聖な人生、グルへの奉仕、
経典の学習という「畑」を購入し、
「隠された宝」をも所有することになるのです。
15.種とその収穫
「神の国は次のようなものである。
人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、
種は芽を出して成長するが、
どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるものであり、
まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、早速、鎌を入れる。
収穫の時が来たからである」
(マルコ福音書4章26~29)
人間のすべての行為は、
まるで蒔かれた種のようなものです。
神の王国では、種は発芽して植物に成長します。
時が来ると、それらは成長して果実を結びます。
果実が熟した時、人は次の誕生でそれらを収穫します。
あなたが種を蒔き、それをあなたが刈り入れる。
カルマの法則とは神秘的なものです。
人類よ、主の御名を繰り返しなさい。
瞑想をしなさい、そして霊的修行に勤しみなさい。
信心、正義と慈愛は、神の王国に蒔かれる種です。
やがて、それらは知恵と神の実現という、
喜び溢れる成果をもたらします。
その収穫は不死と永遠の至福です。
霊的成長はすぐにはわかりませんが、
間違いなく明らかに、報いはもたらせられるのです。